オジさんの科学vol.119 2025年11月号
時を超える香り
オジさんの人生で一番記憶に残る匂いは、手術室に漂ったステーキの香りだ。!???。お尻の外科手術で患部を焼いて処置した時の匂いだった。香ばしくて、ヨダレが出そうないい香りだった。手術の後、そのまま某ビール会社へプレゼンに行った。ディレクターが休ませてくれなかったのだ。座るのが辛かった。
先日は、天下一の香りに誘われた。出かけた先は武道会、ではなく上野の森美術館の「正倉院 THE SHOW」。今年7月宮内庁は、天下一の名香と言われる「蘭奢待(らんじゃたい)」の香りの再現に成功した、と発表した。その香りを嗅ぐことが出来る、と謳っていた。

蘭奢待は、天皇の許可なくしては扉を開けることすらできない正倉院正倉に収蔵されています。ご存じの通り、正倉院は、1200年以上も前に聖武天皇が没した際に、その遺愛品を納めるために、光明皇后が造った宝物庫です。
蘭奢待とは、香木「黄熟香(おうじゅくこう)」の通称です。長さ156cm、重さは11.6kg。表面が黒光りし、ぽっかりと空洞がある朽ちた木の幹には、切り取った跡があります。そこに貼られた3枚の紙片には、誰が切り取ったのかが記されています。足利義政、織田信長、そして明治天皇。
室町時代から続く香道の家元は、足利義政から賜ったと言われる蘭奢待の欠片を代々家宝として守っているそうです。香道は、室町時代から江戸時代にかけて盛んになりました。しかし、一握りの権力者たちしか触れることが出来ず、庶民にとっては伝説の香りだったようです。「死ぬまでになんとしてでも一度は香りを聞いてみたい」とまで言われたそうです。

その香りは少しずつ失われているそうです。これを残そうと、宮内庁は2024年10月に調査を開始しました。「どんな植物なのか」「いつできたのか」、そして「香りの正体は何なのか」。
宮内庁は、タイムふろしきを持っていなかったので、科学的なアプローチを試みました。木材組織学や考古年代学の専門家、香料会社の成分分析の研究員や調香師が参加しました。分析には、移動などの際に落ちた欠片が使われました。
樹脂で固めた欠片を薄くスライスし、光学顕微鏡で組織を観察しました。さらに太陽光の100億倍の明るさがつくれる大型放射光施設「SPring-8」のX線を使って調べました。
その結果、ジンチョウゲ科の樹木と判明しました。この樹木の一部は、沈香(じんこう)と呼ばれる高級香木の原料となり、特に高品質のものは伽羅(きゃら)と呼ばれます。しかし、未だに蘭奢待を超える香木は無いそうです。
この樹木は、傷や虫食いなどの被害を受けると、細菌などの微生物から自らを守るために樹脂をつくります。この樹脂が香りの素になります。
蘭奢待の伝来を記した史料はありません。年代を調べるために、加速器質量分析装置を使い炭素の同位体比を測定しました。その結果、蘭奢待の原木は、正倉院が出来た数十年後に倒木あるいは伐採された、と判りました。
匂いの気体を分離して分析するガスクロマトグラフィーという手法を使うと、300~400の成分が含まれていることが判かりました。同時に、調香師が各成分を嗅ぎ分けることで照合しました。担当した調香師は、1,000種類に及ぶ香りの原料を記憶しているそうです。この分析結果を基に、蘭奢待の香りを再現しました。
正倉院 THE SHOWでは、正倉院の宝物を後世に伝えるために映像と「再現模造」で紹介しています。宝物をもう一つ作るという考えの下で、材料や構造、技法までも忠実に復元するために、人間国宝や伝統技術保持者の方々の手によってつくられていました。
素晴らしい作品の数々も、もちろんしっかり堪能しながら、蘭奢待のゾーンに突入しました。真ん中にドーンと蘭奢待。本物ではありません。レプリカです。大河ドラマ『麒麟がくる』の撮影に使われたものだそうです。

その一室の壁に沿って小さな徳利にお椀をかぶせたようなガラス容器が並んでいました。小徳利の中に再現した匂いの素が入っていて、持ち上げたお椀に漂う香りを嗅ぎました。
千年を超えて香り続ける蘭奢待。仄かに甘くスパイシーな漢方薬の様な香りがした。すっきりしているが、複雑で奥深く、微か。不快ではないが、驚くほどいい香りでもなかった。ただ「あぁ、この微妙な感じは日本人が好きそうかも」と思えた。信長は、どう感じたのだろう。
匂いの好みには、文化や風土、歴史が反映される気がする。一方で体験や記憶に結び付いたとても個人的なモノとも思える。夏のプールの匂い、おばあちゃんの家のお線香の匂い、あの喫茶店のコーヒーの香り、お尻ステーキの香りといったように・・・。
や・そね
<参考資料>
「権力者をとりこにした香木『蘭奢待』 香り成分や年代判明 宮内庁正倉院事務局」(2025年9月1日)科学技術振興機構Science Portalニュース